片桐且元 真田幸村

徳川家康が大阪の陣で豊臣家を滅ぼすために起こした方広寺鐘銘事件と片桐且元のストレス #真田丸

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2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」も、10月から大阪の陣へストーリーが転換していきそうです。

ドラマの中で小林隆さん演じる片桐且元。ここまでのところはひょうけた役、ちょっと情けない役を演じられていますが、実は豊臣秀吉、そして石田三成亡きあとの豊臣家を支えた大変な人物。

この人が大阪の陣の開戦の景気となった方広寺鐘銘事件でどのような立場だったのかを、通説とぼくの贔屓目を元に語りたいなあとおもっています。

片桐且元、すごい人ですよ。

大阪冬の陣(1614年=慶長19年)の3年前、後水尾天皇の即位のあたりから、徳川家康は本格的に豊臣秀頼=豊臣家を危険視するようになっていました。豊臣家の家老で徳川家との連絡を頻繁に受け持っていた片桐且元は、関が原の戦いの後はずっと豊臣家存続のために奔走していたと言っても過言ではありません。

そんななか、大阪冬の陣が起こる同年の春に、方広寺鐘銘事件が起こります。徳川家がなんとしても豊臣家を滅ぼすために仕掛けた喧嘩で、これが決定的だったと言われるものです。

徳川の無理難題

豊臣家が建造していた方広寺大仏殿の再建工事がほぼ完了し、再建工事の総奉行だった片桐且元は慶長19年の3月以降、最後の仕上げとして鐘を作ります。高さが3メートル以上、直径約2メートル90センチ、銅の使用量が64トンあまりと言われているこの鐘に片桐且元は、南禅寺の和尚・清韓に銘文を依頼しました。4月下旬のことです。

銘文から方広寺の大仏供養まで、片桐且元はその一切合切を徳川家康にも報告していました。本当に心細やかに、豊臣家を滅亡させないよう心を砕いていた片桐且元は、現代でいう「ほうれんそう」を徹底し、徳川方に嫌われないよう最大限の努力をします。

ところが徳川家は後出しジャンケンのように片桐且元へ難題をふっかけてきます。供養の席での天台宗や真言宗の座位などです。徳川からしてみたら、とにかく豊臣家と喧嘩(戦)がしたい。できれば豊臣側から戦をしかけるような筋道を立てたいとおもっているんですから。

その無理難題を押し付ける相手は、豊臣家の家老でもっとも話を聞く気のある、片桐且元だったわけですね。いや、ほんと、かわいそう・・・。

国家安康 君臣豊楽

極めつけは、その銘文に対する難癖です。

散々悩まされた宗教的な処置も叶い、8月に開眼供養・堂供養ができるようになったと思いきや、7月になって鐘銘に徳川家に対して不吉な文言があると言ってきたのです。

それが有名な

国家安康

君臣豊楽

の2語でした。

・国家安康

国「」安「」が家康の名前を分断しているという言いがかり。

・君臣豊楽

豊臣」を「(君主)」として「楽(楽しむ)」という、豊臣の反映を願っているものだという言いがかり。

この2語をもって、徳川を呪い、豊臣の時代へ逆戻りさせる呪詛だと言わんばかりに難色をしめします。

8月の行事の開催も中止せよ、と怒りますが、この時点で徳川は、徳川と豊臣の争いの矛先を一旦、南禅寺の清韓責めに変更しました。あらゆる難癖をつけられながら直接的には豊臣を責めない徳川のせいで、片桐且元は大阪城から家康の住む駿府城への下向を強いられます。

二重交渉

片桐且元は駿府に1ヶ月ほど滞在します。この間、鐘銘事件でケチを付けたブレーンである金地院崇伝や本多正純と様々な交渉をしていたと言われていますが、その一ヶ月間、大阪方は焦れに焦れます。

このころ豊臣家の武将として主導する立場だった大野治長のお母さん、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)らを淀殿は追加で派遣します。そしてほぼ同時期に大阪城に浪人などを呼び込む作業をしていたのです。おそらく真田幸村もこの頃に大阪城に入っていたでしょう。

片桐且元へは厳しく、大蔵卿局へは優しく

徳川家康の対応は、両者で全く異なるものでした。且元へは両家の平和の危機が近づいていることを匂わせ、大蔵卿局には楽観できるような情報を与えたのです。大阪へ戻る途中に大蔵卿局と会った且元は、その平和の危機について語ると、大蔵卿局から不審がられることになってしまいました。

これは徳川の思う壺で、豊臣がなんとか生き存える方法を模索していた且元自身も豊臣にとって悪者になってしまうかのように「ハメられた」ということになってしまったのです。

且元は「豊臣が生き残るには大阪城を退去する、母の淀殿を人質に出すなどの大幅な妥協が必要」という印象を持っていました(そしてこれが徳川の本心に近かった)が、大蔵卿局は「豊臣と徳川は悪い関係にない」と刷り込まれているのです。

これでは且元が豊臣家にとって裏切り者扱いをされても仕方ないといえるでしょう。

進退窮まる

9月中旬に戻った且元は豊臣秀頼・淀殿へ自分の交渉内容を報告しますが、結局これで、且元は大阪の敵と見られてしまうようになりました。大阪城の強硬派からは命を狙われるようになってしまい、大阪城の居場所がなくなってしまったのです。

大阪城に戻ってからも豊臣と徳川の間を取り持つつもりだった且元でしたが、ついに志破れ、10月1日に大阪城を逃げるように退去することになりました。

同日、徳川家康は大阪城への攻撃を決定します。且元は徳川家康の重臣に自分の息子を人質として預け、徳川家の忠誠をちかいました。10月中旬から下旬にかけてのことです。豊臣家のために我慢に我慢を重ね、辛抱し通した且元はその心が理解されず、豊臣家から徳川家に鞍替えせざるを得ませんでした。

大阪の陣と死去

結局、慶長19年、20年の大阪冬の陣・夏の陣、且元は徳川方の武将として大阪城攻めに参加します。大阪城が堕ちたのは慶長20年の5月18日。その後且元は大阪落城の10日後、5月28日に病死してしまいます。

もとから肺病だったという説もありますが、ここまでの話を後から追っている僕は、どう考えても豊臣・徳川の交渉でストレスを溜めたとしか思えないんですよね。

戦で命をかける普通の戦国武将と違い、且元は最初の平和が訪れた関ヶ原の戦い以降、以下に豊臣家を徳川家に潰されないようにするか、それを守っていく仕事に奔走しています。

徳川からは無理難題を突きつけられ、豊臣からは信頼を失い、大阪の陣直前の1年くらいはやりきれない毎日が続いていたのではないでしょうか。

こんな戦国武将らしくない武将の生き様を見せた片桐且元が大好きですし、豊臣と徳川を共存させるという、あの時代に加藤清正や浅野幸長が志半ばで倒れた目標に向かって、大阪の陣までとにかく頑張り抜いた所も尊敬できます。真似できないですよ。

よくある小説の他は、この本を参考にしました!

-片桐且元, 真田幸村
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