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岡山ブログカレッジで「行儀のよいブログ運営」について講演してきました #岡フロというエントリーで書きました通り、僕は先日岡山・倉敷にお邪魔してブログ運営についてお話をさせていただく機会をいただきました。

講演から東京に帰る途中、岡山駅で降りて、すこし周囲を見てみようかと思いました。そこでぶらぶらしていたら、なんと豊臣秀吉が織田信長の有力武将だったころに毛利責めをし、本能寺の変の直前に水攻めで落とすところまで行った備中高松城がローカル線で15分くらいのところにあるじゃないですか!戦国時代好きなので高松城の水攻めの現場をこの目で見ておきたく、行ったのは言うまでもありません。

いや、こんな広いところを水浸しにしたのか!という驚きのスケールでしたよ。

高松城の水攻め

高松城という名の通っている城は二つあります。香川県にある玉藻城といわれた高松城、そして岡山県にあった水城の備中高松城です。以降、この記事では備中高松城について話します。

高松城は織田信長と毛利輝元の争いで、最後の争点になった城です。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が軍師・黒田官兵衛らと高松城の近くの川の水をせき止め、数キロメートルにわたる堤防を作り、湿地帯にあった高松城を水没同然にしたところで、戦国時代最大の事件・本能寺の変が起りました。

秀吉は急ぎ講和し、ほぼ岡山駅のあたりから京都まで、本能寺の変を起こした明智光秀を倒すために大転換します。これが中国大返しで、10日で200キロメートル行軍したと言われているものです。

中国大返しにあたり、講和はもちろんですが、高松城を水攻めにした大きな池を作った堤防を壊すことで付近を泥濘化させ、物理的にも追撃しにくい形を作ったとも言われていますね。

駅名からテンションアップ

岡山駅から出る吉備線は桃太郎線とも言われます。リアル桃太郎電鉄です。岡山県にある桃太郎の伝説に絡む地方を走る電車なのですが、その中の一駅が

この備中高松駅。戦国時代好きなら、この駅名だけでご飯を3杯食べられそうです。

もちろん駅には秀吉の水攻めの解説が出ていたりします。秀吉は毛利を滅ぼすことをしなかったので、悪役にはなっていなさそうな雰囲気です。

帰りの電車を確認しましたが、日中でおよそ30分に1本といった感じでしたね。

とにかく広い!

駅前の看板には高松城の水攻めに関する史跡一覧と、ぐるっとお散歩コースのようなものが紹介されていました。こうやって写真に撮ってみたものの覚えきれるはずもないので、自治体がGPSでナビしてくれるアプリなんか作ってくれると嬉しいなあと思ったり。

ちゃんと一通り回ろうとすると5.2キロになるらしく、それぞれ写真を撮ったり看板の資料を読んだりしたら3時間くらい掛かってしまうんじゃないかと思ったので、帰りの日の立ち寄りだった今回は、秀吉が築いた堤防と高松城址を見て回れれば良し、と決めて歩くことにしました。

この日は確か33度を超えるような気温。コンビニでペットボトルを1リットル分購入してウォーキング開始です。

こんな広いところを、というスケールの大きさ

堤の端っこの方が部分的に残っているということで、それを観に行きました。駅から南西の方角。

うわーっと稲の植わっているところがあったんですけれど、どうやらこの部分、すべて水没したらしいんですよね・・・。規模が大きすぎます。

原っぱがあって子どもたちが遊んでいましたけれども、こういう場所もすべて水攻めの時には水没していたとのこと。それもそうです。

この高さ表示板のてっぺんが、秀吉が築いた堤の高かったところらしいです。標高8.4メートルだそうで。
高松城の天守のてっぺんが、標高7メートルだったそうです。城を沈められるほどの堤を作っていたっていうことでしょうね。

こんな高さの堤を数キロメートルにわたって作っていたというのですから驚きです。


堤の跡に上って水没していた部分を見下ろしてみるの図。この視野が全部水没かあ・・・。

高松城址へ

堤を見終えたので、高松城址へ向かいます。お城というと立派な石垣が組まれていて、部分的にお城が残っていたり再建されたりしているものを思い出すかもしれませんが、高松城はそもそも沼城。沼地や湿地に作ることで自然と防御をなしている、というタイプのものです。もう何も残ってはいません。

その代わり、公園になっていました。

高松城址!って看板はあるんですけれど、後ろにはひたすら平地が広がっていますからね。

公園には看板が立っていたり

池みたいなものに渡しがあったりして、水が豊かな土地だということはきっと戦国時代のころからそうだったのだろうなあという感じがします。堤から城址まで1キロ近く歩いていますが、田んぼ的な部分が多かったように思います。

公園の中央部には資料館がありました。

撮影の許可を頂いたので、中を少々。航空写真の地図でどこからどこまでが水浸しになったのか、などが説明されています。
200ヘクタール(1ヘクタールは10000平方メートル)という湖が出来た、と言われていますから、長方形で考えても4000メートル×5000メートルほどの湖を秀吉は作ってしまったということなんですね。

高松城址部分をぐるっとパノラマで撮影。本当にだだっぴろい平地になっています。

スケールの大きさに脱帽する

スケールが大きすぎてとてもすべての史跡を短時間では回りきれませんでした。おそらく4キロメートル四方くらいを歩き、15,000歩程度はぶらぶらしていたと思います。猛暑もあり、屋内施設もほとんど無かったことから雰囲気をつかむだけで岡山駅に戻りました。

それでも、でも。

備中高松城の水攻めの規模感を足で歩いて知ることが出来たのは歴史ファンとして大きな喜びです。高松城主の猛将・清水宗治は当初、湿地を上手に活用し秀吉の大軍を退け続けていました。それを秀吉がこの規模の湿地を湖にしてしまい攻略、切腹のために清水宗治は舟にのって出てきたと言います。

そんな土木工事を戦国の世で行ってしまうなんて。
電車も車もない時代なのに。

いや、本当にスケールの大きなことです。秀吉軍の発想の大きさに度肝を抜かれました。

リアルなスケールを知って、また戦国時代のことが一つ好きになってしまいました。

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